スプレッドとは
スプレッド
元々は「鞘」とか「ひろがり」といった意味。市場でスプレッドというと通常は、買値と売値の開きのこと。
不動産投資ではチャガタイの長男モエトゥゲンが戦死し、アフガニスタン中南部のパルワーンでは駐留していたボルテの養子シギ・クトクの軍がジャラールッディーンの軍に壊滅させられるなど手痛い反撃を受けた。チンギスはトルイを殿軍としてホラーサーンに駐留させて自らの本軍とジョチ、チャガタイ、オゴデイ率いる諸軍を引き連れ、マーワラーアンナフルから南下してジャラールッディーンをインダス川のほとりまで追い落として捕縛は出来なかったものの撃退することには成功した。一方、カスピ海まで逃げた君主アラーウッディーンを追ったジェベ、スベエテイ率いる別働隊はアラーウッディーンを取り逃がしたのもの、そのまま捜索を続けてアゼルバイジャンからカフカスを抜けてロシアに至り、ルーシ諸公を破って勇名を轟かせた。
モンゴリア本土への帰還後、チンギス・カンは中央アジア遠征への参加の命令に従わなかった西夏への懲罰遠征に赴いたが、1227年、西夏を完全に滅ぼす直前に陣中で病没した。
ワラントは戦闘による征服活動以外に、幾度かのモンゴル高原周辺の有力諸勢力の帰順によって大きく自勢力を遊牧政権の「国家」として段階的に発展させている。
1203年春にオン・カンの息子イルカ・セングン率いるケレイト王国軍と戦い、善戦するものの大敗を喫し、麾下の諸軍も潰走してしまった。この時バルジュナと呼ばれる湖まで落ち延び、ジョチ・カサルなど一部の供回りとともにこの湖水をすすって再起を誓ったという。程なくイルカ・セングンらが戦勝で油断していた隙をついて、コンギラト、コルラス部族などの臣従をとりつけケレイト本軍の幕営に夜襲をかけて逆にケレイト王国を制圧してしまった。この時オン・カンの弟ジャガ・ガンボが降服し、その娘たちがジョチやトルイと婚姻を結んでいる。『元朝秘史』などによれば、この逆襲劇の発端ともいえる「バルジュナ湖の誓い」には敗戦以前からチンギスに付き従っていた近親や譜代家臣以外に、ゴビ砂漠以南の陰山山脈に拠点をもつオングト部族長オングト、オイラト、ウイグルそれぞれのモンゴル帝国への帰順は、それぞれモンゴル帝国にとって重大な画期となった。オングトの援助と帰順は窮地に陥っていたチンギス・カーン陣営がモンゴル高原を統一するまでに一気に躍起した契機となり、またチンカイやタタ・トゥンガらウイグル系やアサンといった中央アジア系のムスリム勢力との接触の端緒となった。オイラトの帰順は西方境域への拡大、天山ウイグル王国の帰順は王国が保留していたウイグル系の官僚たちを取り込み、その後の中国、イラン・中央アジア方面といった農耕地域への征服を通じて支配領域を拡大して行くが、彼らウイグル系やムスリム系の財務官僚たちがこれら新期の領土における支配体制の確立に大きく寄与している。特にウイグルの帰順は、ウイグル人官僚がテュルク語文語として確立していた古典ウイグル語や漢語、イラン系言語に通じていたため、帝国経営における財務関係のノウハウや人材の提供したこと。初期だけでなくモンゴル帝国全体のその後の農耕地域支配の基礎を整備し、帝国において遊牧以外の生産・財政基盤を確立したことは重大である。オングトやカルルク、ウイグル王家などはモンゴル帝国の地域支配の要として「?馬王家」というモンゴル王家に準じコンギラト部族などとならぶ高い地位を得た。
くりっく365、エルデニ・ズー寺院周壁外のモンゴル時代の亀趺チンギス・カンの死後、生前の勅命によってモンゴルの全千人隊のうち8割を占めるその直属軍は10万1000戸が四男のトルイが相続し、トルイは監国としてモンゴル皇帝である次期大ハーンの選出を差配する役割を与えられた。このとき軍才にすぐれた長兄のジョチは既に亡く、財産の多寡でいえばトルイが圧倒的に有利であったが、次兄チャガタイら有力者たちは、兄弟のいずれとも仲がよく、そのためチンギス・カンが生前に後継者とすることを望んでいた三兄オゴデイを推した。こうしてオゴデイが即位し、トルイは帝国の分裂を防ぐために中央軍の指揮権を新モンゴル皇帝(大カアン・大ハーン)に譲ったと言われている。
父の死から2年後の1229年に即位したオゴデイは、トルイと協力して金朝との最終戦争にあたり、1232年に金朝を完全に滅ぼした。トルイは金朝との遠征からの帰路に病没するが、これによってチャガタイの強い支持を受けたオゴデイは皇帝としての地位を固め、1234年に自らの主導するクリルタイを開いてモンゴル高原の中央部に首都カラコルムを建設させた。これ以降、オゴデイはカラコルム周辺の草原に留まり、遠征は皇帝ではなく配下の軍隊に委ねられる。近年の研究によると、トルイはウルスはカラコルムの北西方向を中心に存在し、トルイが統帥していた10万戸以上の軍団も、オゴデイの政策によって金朝への遠征などを通じて中軍・左翼軍団へ分散され、オゴデイを含む王族直属としてはなおも最大であったものの結局トルイ麾下の軍団は2万戸余りにまで縮小されてしまったようである。(宇野伸浩氏らの研究による)
外為のインノケンティウス4世宛国書に捺されたモンゴル皇帝の朱印オゴデイの治世にはカラコルムを中心として行政機構が整備され、チンカイ、マフムード・ヤラワチ、耶律楚材ら様々な民族出身の書記官僚(ビチクチ)たちによる文書行政が行われた。中国や中央アジアでは戸口調査が行われ、遊牧民には家畜100に対して1が、農耕民には10の収穫に対して1が税となる十分の一税制が帝国全土に適用された。帝国の主要幹線路には一定距離ごとにジャムチ(駅伝)が置かれ、カーンの発給した許可状(パイザ)をもった使者や旅行者、商人は帝国内を自由に行き来することができるようにされた。
1235年、建設間もないカラコルムで開かれたクリルタイは、中国の南宋と、アジア北西のキプチャク草原およびその先に広がるヨーロッパに対する二大遠征軍の派遣を決定した。南宋に対する遠征は司令官とされたオゴデイの皇子クチュの急死により失敗したが、ジョチの次男バトゥを司令官とするヨーロッパ遠征軍はロシアまでの全ての遊牧民の世界を征服し、遠くポーランド、ハンガリーまで席捲した。オゴデイの治世にはこれ以外にも高麗やインド、イランに遠征軍が派遣され、モンゴル帝国は膨張を続けた。
グユクが1246年にローマ教皇インノケンティウス4世に宛てたペルシア語文国書。文面に「カアンとチンギス・カン」の名が見える1241年にオゴデイが急死し、翌年にはチャガタイが病死すると、チンギス・カンの実子がいなくなった帝国には権力の空白が訪れた。次期モンゴル皇帝(大カアン・大ハーン)の選出作業にはオゴデイの皇后ドレゲネが監国となってあたったが、ドレゲネがオゴデイの生前に指名した後継者シレムンを無視して自身の子であるグユクを擁立しようとしたため、皇帝(大カアン・大ハーン)の選出が遅れた。(シレムンは、1236年に南宋遠征中に陣没しオゴデイが生前後継者と指名していた三男クチュの長男) 1246年、ようやく開催されたクリルタイはグユクを皇帝に指名したが、グユクと仲の悪いバトゥ率いるジョチは兄弟たちは出席させたものの自身は病気療養を口実にクリルタイをボイコットした。皇帝のグユクと西方の有力者バトゥの対立により帝国は一時分裂の危機に陥るが、グユクは即位わずか2年後の1248年に病死する。
グユクの死後、監国となった皇后オグルガイミシュは続いてオゴデイ家から皇帝を選出しようとクリルタイを召集したが、バトゥは叔父トルイの未亡人ソルカクタニ・ベキと結んでトルイの長男モンケを皇帝に即位させようと目論み、クリルタイを欠席した。オグルガイミシュにはオゴデイ家とチャガタイ家、ソルカクタニにはジョチ家とトルイ家がつき、両陣営は後継者をめぐって水面下の対立を続けた。
1251年、トルイ家の陣営はついにオゴデイ家・チャガタイ家の説得を諦め、ジョチ家の協力を受けて自領内のチンギス・カンの幕営(オルド)においてモンケの即位式を強行した。モンケは即位するやいなやオゴデイ家とチャガタイ家の有力者に皇帝暗殺を計画した嫌疑をかけて弾圧し、オグルガイミシュ以下の有力者は処刑され、オゴデイ家とチャガタイ家のウルスは解体寸前の状態にされてしまった。
外為はオゴデイが行った占領地域に統治政策を受け継ぎ、帝国のうち定住民が居住する地帯をゴビ砂漠以南の漢地(中国)、カンガイ山脈以西の中央アジア、アム川(アムダリア川)以西の西アジアの3大ブロックに分けて地方行政機関(行尚書省)を再編した。『元史』に載るいわゆる燕京等處行尚書省、別失八里等處行尚書省、阿母等處行尚書省の3つの行尚書省がこれにあたり、マフムード・ヤラワチやサイイド・アジャッル、マスウード・ベク、アルグン・アカといった財務官僚たちこれらの管轄やその補佐として各地に任命された。さらに3人の同母弟のうち次弟のクビライを漢地の軍団の総督、三弟のフレグを西アジアの軍団の総督に任命してそれぞれにその方面の征服を委ねた。