デイトレードとは
デイトレード
買建をしてその日のうちに売ったり、売建をしてその日のうちに買い戻すといった、1日の価格の値動きで差益を得る目的で行う売買のこと。
資産運用のフレグ西方遠征軍によるバグダード包囲(『集史』パリ本より)この内紛の最中に、西アジア方面軍の総督であったフレグはアム川以西の行政機関を支配下におき、イランに留まって西アジアを支配する自立政権、イルハン朝を建設した。それまでの帝国内諸ウルスは、帝国中央から直属の遊牧民を分与され、遊牧勢力圏を認められてはいたが、たとえその勢力圏であろうと、都市や定住民の統治は帝国中央の大ハーンの統治下にあった。イルハン朝は西アジア方面軍の将兵として配下にあった遊牧騎士だけでなく征服地の都市や定住民も統治下に置き、大ハーンの権威を戴きつつも領域国家としての自立性をもった最初の帝国内勢力となった。これは後にモンゴル帝国が4つの領域国家が大ハーンの権威下に緩やかに連合する体制に移行する嚆矢となった。イルハン朝は南カフカスの草原地帯の支配をめぐってジョチ・ウルスを継承したバトゥの弟ベルケと対立し、両政権は東方での大ハーン位の空席と武力による争奪戦という帝国の一大事をまったく無視して争い始めた。また、モンケの弾圧以来低迷していた中央アジアのオゴデイ・ウルスおよびチャガタイ・ウルスは大ハーン位争いの間に勢力を盛り返そうと蠢動した。
外国為替証拠金取引、クビライがアリクブケを降し単独の大ハーンとなったとき、モンゴル皇帝の影響力が直接及ぶのはモンゴル高原、天山ウイグル王国、チベットより東側のみになっていた。モンゴル帝国がバトゥのヨーロッパ遠征、フレグの西征のように帝国の全力をあげて遠征を遂行することは不可能になり、帝国の膨張は東アジアを除いて停滞に向かう。
13世紀末までのモンゴル帝国と諸王家の領域クビライは帝国の分裂的な状況を追認してフレグのイラン支配を認めるとともに、中国を安定的に支配することを目指し様々な改革を打ち出した。1271年、クビライは大ハーンの支配する国の国号を大元と改め、1276年には南宋の首都杭州を降して肥沃な江南を支配下においた。
しかしこの間、様々な問題が噴出し、事態は混迷していった。まず、アリクブケの命によってチャガタイ家当主となったアルグは、しかしこれに離反してクビライ支持を表明してアリクブケと戦い、これを敗りアリクブケ一党の降服とクビライの勝利を確実にさせた(1266年にはアリクブケ没する)。1264年、クビライはアルクブケの降服によって帝国中枢の混乱を一旦収束させると、統一クリルタイの開催を帝国全土に呼び掛けた。西方のイルハン朝のフレグとジョチ・ウルスのベルケはカフカス以南での度重なる戦闘で膠着状態に陥っていたため、この呼び掛けに応じた。クビライの大ハーン位宣言は自己の勢力のみで行ったクーデター同然の無理矢理の即位であったため、モンゴル帝国皇帝である大ハーンの即位式は、アルグ、ベルケ、フレグの三者を会してのモンゴル全王家臨席の正式なクリルタイが必要であった。
投資信託にフレグが突如死去し、続いて1266年初めにはこれを好機としてカフカスを南進して来たベルケも陣没、チャガタイ・ウルスを支配するアルグも程なく死亡するという一連の事態によって、西アジア・中央アジア情勢は再び不穏となった。クビライは緊急措置としてイルカン朝の後継者としてその長男アバカを任命し、フレグのジョチ家の当主にはバトゥの孫モンケ・テムルを任じ、アルグにかわってチャガタイ家の当主には、第2代当主カラ・フレグとその妃オルクナとの息子ムバーラク・シャーを任命した(このオルクナはカラ・フレグの死後に当主となったアルグと再婚し、アルグの没後はチャガタイ家の監国となっていた)。この時、ムバーラク・シャーはまだ成人間もないため、クビライはカラ・フレグの甥にあたるバラクを重ねて派遣してチャガタイ家を共同統治させることにした。ところがムバーラク・シャーとオルクナのもとに至ると、バラクは両者を押さえてチャガタイ家の当主位を奪ってしまった。一方同じ時期にオゴデイ家の有力者カイドゥは、クビライとアリクブケのカーン位争奪の合間に、一連の混乱やモンケの粛正によってモンゴル高原から追われた王族やその他の勢力を糾合し、勢力を伸長させていた。カイドゥは度重なるクビライからの召還を口実をもうけては逃れていたが、1268年についにイミル河畔でカイドゥはクビライに対して公然と反旗を翻した。
クビライは1253年に雲南の大理国を征服し、フレグは1256年にはアラムートのニザール派を、1258年にはバグダードのアッバース朝を壊滅させる一方で、かねてからモンケに服属を表明していたアナトリアのルーム・セルジューク朝やファールス州のアタベク政権サルグル朝、ケルマーン州のカラヒタイ朝などのムスリム(イスラム教徒)諸政権に加え、大小アルメニア王国やグルジア王国など、イラン以西の諸勢力の掌握に勤めた。さらにモンケは南宋との決戦のため自ら長江上流域に侵入したが、苦戦を重ねた末に1259年に陣中で疫病に罹って没した。
モンケの死後、首都カラコルムにあって留守を守っていたのは末弟のアリクブケであった。アリクブケはモンケの旧政府の支持を受け第5代モンゴル皇帝(大・カアン・大ハーン)に即位しようとしたが、南宋遠征で別働隊を率いて中国にいた次兄のクビライが中国および南モンゴリア、そして東モンゴリアのチンギス・カン諸弟のウルスの支持を受けて、南モンゴリアのドロン・ノールで自らモンゴル皇帝(大カアン・大ハーン)に即位した。続いてアリクブケも即位し、モンゴル帝国は南北に2人のモンゴル皇帝が並立する分裂状態となる。
日経225のバラク派遣はカイドゥに対する牽制もしくは屈服させる意味合いが強かったが、チャガタイ家の当主位を奪ったバラクはこれに反してこのオゴデイ家の有力者カイドゥと協定を結び、ブハラやサマルカンドをはじめとするモンゴル皇帝直轄であったマーワラーアンナフルの諸都市を接収した。しかし、程なくその配分を巡って徐々に対立を深めていく。一方、チンギス・カンのホラズム・シャー朝征討以来マーワラーアンナフルに多くの権益を有していたジョチ・ウルスでは、新当主モンケ・テムルがこれらカイドゥとバラクの動静を強く警戒し、カイドゥに対して一軍を派遣してこれを牽制した。カイドゥはモンケ・テムル側と和平を結び、逆にバラクに対してジョチ・ウルス左翼の統帥であるオルダ家当主のコニチ以下5万騎の援軍をもって敗った。この戦いに敗退したバラクはチャガタイ家に約束された中央アジアの取り分を主張し、カイドゥ側の王族たちを説得してクリルタイの開催を訴えた。こうして1269年にジョチ・ウルスの代表者でベルケの次弟ベルケチェルらの臨席のもと、カイドゥとバラク側の王族たちは会盟して中央アジアの大ハーン領を3王家の間で分割した。バラクがマーワラーアンナフルの3分の2、残り3分の1はモンケ・テムルとカイドゥが分割するという取り決めで、なお不足するバラクの分はアムダリヤ川を超えてイルハン朝のアバカが治めるイラン地域を奪取することになり、1269年秋にバラクはカイドゥ側の王族たちを引き連れてアムダリヤを渡ってホラーサーン地方へ侵攻した。ジョチ・ウルスはクビライ側と事を構えるつもりは無かったようだが、現実に中央アジアを支配下においているのはカイドゥ率いるオゴデイ家と、チャガタイ家およびクビライの派遣した中央アジア遠征軍を指揮したバラクであったので、マーワラーアンナフルの利権を守るためバラク側の要求に応じざるを得なかったのではないかと、現在では考えられている。しかし、途中でバラクは彼らオゴデイ家の人々と不和になり、加えて1270年7月20日、ヘラート近郊のカラスウの地でアゼルバイジャン地方から迎撃に出たアバカ軍の総攻撃に逢い、大敗北した。さらに1271年にはブハラまで敗走したバラクが急死してカイドゥが中央アジアの最有力者となり、1282年に即位したバラクの遺児ドゥアやクビライに対して反乱を起こしたアリク・ブケの遺児メリク・テムルらはカイドゥの庇護下に入った。中央アジアに誕生したこの勢力はカイドゥ王国などと呼ばれる。アバカはカラスウの勝利ののち1270年11月7日にクビライからの使節団によって正式にイラン地域の支配を認めた王冠、封冊の賜衣、封冊書を拝領し、加えてジョチ・ウルスのモンケ・テムルからもハヤブサなどの祝賀の献上品を受領して、イランにおけるフレグ家の支配がモンゴル皇帝とジョチ家という二大勢力から正式に認証されることとなった。
FXはクビライの元と真っ向から対立し、モンゴリアおよび中央アジアの支配を巡って長く抗争を続けるが、1301年に戦死した。カイドゥの死をもってカイドゥ王国の有力者となったドゥアはカイドゥの遺児チャパルを説いて、時の君主であるクビライの孫テムルに和睦を申し出た。続いてドゥアは元と結んでチャパルを追放、オゴデイ・ウルスをチャガタイ・ウルスに併合し、カイドゥの王国は中央アジアを支配するチャガタイ・カン国に変貌する。