スイングトレードとは
スイングトレード
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株と繁栄の時代も長くは続かなかった。元では1307年のテムルの死後君主位を巡る対立と抗争が相次ぎ、1323年に君主暗殺事件が起こってからは次々に君主が交代して王朝の安定が失われていった。さらにモンゴル諸政権の安定にとどめを刺したのはペストの大流行をはじめとする疫病と天災の続発であった。
ドゥアの子が相次いで当主に立っていたチャガタイ・ウルスは、1334年の当主タルマシリンの死後、東西に分裂した。イルハン朝では1335年にアブー・サイードが没した後に後継者争いの末にフレグの王統が断絶、ジョチ・ウルスでは1359年に左翼諸家の当主オルダ家に続いてジョチ家宗家であるバトゥの王統が断絶し、傍系の王子たちを擁立する有力者同士の争いが起こって急速に分裂していった。
大元ウルスでも1351年に起こった紅巾の乱によって経済の中心地であった江南を失い、1368年、ついに紅巾党の首領のひとりであった朱元璋の立てた明によって中国を追われた。北元と呼ばれるようになった元はモンゴリアに拠って明への抵抗を続けるが、1388年にクビライ王統最後の大ハーン、トグス・テムルが内紛により殺害され、かつてモンゴル帝国を構成した諸部族は分裂した。
株が北走してからも14世紀後半には東はモンゴリアの北元から西はイラクのジャライル朝まで大小さまざまなモンゴル帝国の継承政権があり、その政治・社会制度の残滓はそれよりはるか後の時代になってもユーラシアの広い地域で見られた。モンゴルを倒して漢民族王朝を復興したとされる明においてもその国制はおおむね元制の踏襲であり、例えば軍制の衛所制が元の千戸所・万戸府制(後述)の継続であることは明らかである。同じ頃、中央アジアから西アジアに至る大帝国を築き上げたティムールは、先祖がチンギス・ハーンに仕えた部将に遡るバルラス部の貴族出身であり、その軍隊は全く西チャガタイ・ハン国(モグーリスターン・ハン国)のものを継承していたのみならず、彼自身やその後継者は国家の君主を名乗らずに、名目上はチャガタイ家当主であるハーン(カン)のキュレゲン(女婿)を称した。
そして、チンギス・ハーンの名とその血統はその後も長らく神聖な存在でありつづける(チンギス統原理)。東ヨーロッパのクリミア半島では1783年まで、中央アジアのホラズムでは1804年まで、インド亜大陸では1857年まで、王家がチンギス・カーンの血を引くことを誇りとするモンゴル帝国の継承政権(クリミア・カン国、シャイバーン朝の後裔ヒヴァ・カン国、ティムール朝の後身ムガル帝国)が存在した。また、かつてのジョチ・ウルス東部に広がった遊牧民カザフの間ではソビエト連邦が誕生する20世紀初頭までチンギス・カンの末裔が指導者層として社会の各方面で活躍した。また、2004年にオクスフォード大学の遺伝学研究チームの報告によると、チンギス・カンが最も遺伝子を遺した人物とし、その数はアジア・ヨーロッパを中心に1,600万人いるとされる。
ipoの故地モンゴリアでは、15世紀の終わりに即位したクビライの末裔ダヤン・ハーンのもとで遊牧部族の再編が行われ、世代を重ねるごとに分家を繰り返したダヤン・ハーンの子孫たちが諸部族の領主として君臨するようになる。17世紀には満州人の大清がダヤン・ハーンの末裔チャハル部から元の玉璽を譲り受け、大元の権威を継承して満州・モンゴル・中国の君主となる手続きを取り、新たにモンゴルの最高支配者となっている。清のもとでもダヤン・ハーンの末裔の王族たちは領主階層として君臨しつづけ、近代にもカザフのチンギス・ハーンの末裔たちと同様に社会の指導者層として活躍した。現在のモンゴル国や内モンゴルの国境や社会組織は清代のものを継承しており、モンゴル帝国の影響は今も間接的に残っているといえる。
モンゴル帝国は匈奴以来のモンゴリアの遊牧国家の伝統に従い、支配下の遊牧民を兵政一帯の社会制度に編成した。モンゴルにおける遊牧集団の基本的な単位は千人隊(千戸)といい、1000人程度の兵士を供出可能な遊牧集団を領する将軍や部族長がその長(千人隊長、千戸長)に任命された。
千人隊の中には100人程度の兵士を供出する百人隊(百戸)、百人隊の中には10人程度の兵士を供出する十人隊(十戸)が置かれ、それぞれの長にはその所属する千人隊長の近親の有力者が指名され、十人隊長以上の遊牧戦士がモンゴル帝国の支配者層である遊牧貴族(ノヤン)となる。千人隊長のうち有力なものは複数の千人隊を束ねる万人隊長(万戸)となり、戦時には方面軍の司令官職を務めた。
チンギス・ハーンとその弟たちの子孫は「黄金の氏族(アルタン・ウルク)」と呼ばれ、領民(ウルス)として分与された千人隊・百人隊・十人隊集団の上に君臨する上級領主階級となり、モンゴル皇帝である大ハーンは大小様々なウルスのうち最も大きい部分をもつ盟主であった。大ハーンや王族たちの幕営はオルドと呼ばれ、有力な后妃ごとにオルドを持つ。それぞれのオルドにはゲリン・コウ(ゲルの民)と呼ばれる領民がおり、オルドの長である皇后が管理した。
こうしてモンケの死より40年以上にわたった内部抗争は終結し、モンゴル帝国は東アジアの大元ウルス、中央アジアのチャガタイ・ウルス(チャガタイ・ハン国)、キプチャク草原のジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)、西アジアのイルハン朝(フレグ・ウルス)の4大政権からなり、元を統べる大ハーンを盟主とする緩やかな連合国家に再編された。
個人向け国債の再編とともに、ユーラシア大陸全域を覆う平和の時代が訪れ、陸路と海路には様々な人々が自由に行き交う時代が生まれた。モンゴルは関税を撤廃して商業を振興したので国際交易が隆盛し、モンゴルに征服されなかった日本や東南アジア、インド、エジプト、ヨーロッパまでもが海路を通じて交易のネットワークに取り込まれた。この繁栄の時代をローマ帝国のもたらしたパクス・ロマーナ(ローマの平和)になぞらえてパクス・モンゴリカ(あるいはパクス・タタリカ)と呼ぶ。
モンゴル皇帝(大カアン・大ハーン)の宮廷にはケシクと呼ばれる皇帝の側臣が仕え、彼らは親衛隊を務めるとともにケシクテイと呼ばれる家政機関を構成した。ケシクはコルチ(箭筒士)、ウルドゥチ(太刀持ち)、シバウチ(鷹匠)、ビチクチ(書記)、バルガチ(門衛)、バウルチ(料理番)、ダラチ(掌酒係)、ウラチ(車係)、モリチ(馬係)、スクルチ(衣装係)、テメチ(駱駝飼い)、コニチ(羊飼い)など様々な職制に分かれ、ノヤン(貴族)の子弟や、大ハーンに個人的に取り立てられた者が属した。この家政制度は他のジョチ家やトルイ家等の王家にも存在し、これらの職種を担ったケシクたちは各王家の当主であるカン(ハン)たちに近侍してウルスにおける諸事を司った。
モンゴル帝国は遊牧民の連合国家ではあるが、中央政府や占領地の統治機関は皇帝の直轄支配下に置かれるので、これらはケシクからの出向者によって形成された。中央ではケシク内のモンゴル貴族から任命されたジャルグチ(断事官)が置かれ、行政実務や訴訟を担当した。その頂点に立つのが大断事官(イェケ・ジャルグチ)で、最初の大断事官はチンギス・カンの妻ボルテの養子シギ・クトクが務めた。地方では多くがモンゴル人から任命されるダルガチ(監督官)が都市ごとに置かれ、占領地の統治を管掌した。
資産運用においてジャルグチやダルガチを助け、末端の文書・財務行政を担う重要な役職がビチクチ(書記)である。ビチクチは占領地の現地の言語に通じている必要があるので、漢民族、西夏人、契丹人、女真人などの漢人や、ウイグル人、ムスリム(イスラム教徒)などの色目人出身者が数多く参入した。
モンゴル皇帝であるカアンに仕えるビチクチたちはケシクの一員として主君の側近に仕え、被支配者に対する命令である勅旨(ジャルリグ)を記録、翻訳し文書によって発給した。中央から発せられた命令はジャムチと呼ばれる駅伝制によって1日100km以上もの速さで帝国の幹線路を進み、すみやかに帝国細部にまで行き届かせることができた。
さらに、モンゴル帝国は皇帝のみならず、王族や貴族、皇后のオルドにもケシクに準じる組織があり、その将校、領民や出入りの商人に至るまで様々な出自の者が仕えた。彼らの小宮廷にも皇帝と同じような行政機関が生まれ、言葉(ウゲ)と呼ばれる命令を発する権力をもった。また、14世紀の初め頃までは王族たちは自分の所領として分与された定住地帯の都市や農村に自分の宮廷からダルガチや徴税吏を派遣し、その地方行政に関与していた。