短期売買とは
短期売買
短期売買とは、短期的な値動きを狙った売買行為。
外国為替に興り、チュニジア以西の北アフリカ(マグリブ)とイベリア半島の南部アル=アンダルス(現アンダルシアとほぼ同じかやや広い範囲)を支配した。その名称のスペイン語訛りから、ヨーロッパでは「アルモハード朝」という名前で知られている。
ムワッヒド朝の起源はベルベル人のマスムーダ族出身のイブン=トゥーマルトが開始したイスラム改革運動にある。彼は現在のモロッコ南部、アトラス山脈の出身で、12世紀の初頭に東方への遊学とマッカ(メッカ)巡礼に出た。そこでムラービト朝治下のマグリブのイスラムを改革する必要を感じたイブン=トゥーマルトは帰郷すると、ムラービト朝の公定法学派であるマーリク派に属するイスラム法学者を痛烈に批判し、1121年には故郷で自らが救世主(マフディー)であると宣言してムラービト朝に対する反乱を開始した。イブン=トゥーマルトは神の唯一性(タウヒード)を重視する教義を説き、そこから彼に従う勢力は「タウヒードの信徒」を意味するムワッヒドの名で呼ばれた。
FXが1130年に没するとアブドゥルムウミンが後継者に就き、自らをカリフになぞらえてカリフの称号であるアミール・アル=ムウミニーン(信徒たちの長)を指導者の称号とした。アブドゥルムウミン以降、ムワッヒド集団はアブドゥルムウミンの子孫がアミール・アル=ムウミニーンとして後継者の地位を継承する王朝へと変容するが、ムワッヒドの名がそのまま王朝名として使われることになる。
アブドゥルムウミンはアトラス山脈に篭ってムラービト朝に対する攻撃を続け、1147年にはマラケシュを占領してムラービト朝を滅ぼした。さらにムラービト朝の衰退後ムスリム(イスラム教徒)の領土へと侵攻していたキリスト教徒たちとの戦いに積極的に乗り出し、イベリア半島のアンダルスやマグリブ東部にまで進出、アンダルスを支配下におき、ズィール朝やハンマード朝を滅ぼしてマグリブのほとんど全域を支配するに至った。アブドゥルムウミンの子アブー=ヤアクーブ・ユースフ1世は即位以前にセビーリャの統治者を務め、アンダルスに強い関心をもった。彼の治下では哲学者イブン・トゥファイルやイブン=ルシュドが活躍し、アンダルスのイスラム文化が頂点を極めた。
その子で第3代君主のヤアクーブ・マンスールの時代にはカスティーリャ王国のアルフォンソ8世を破って(アラコルスの戦い)、キリスト教徒によるレコンキスタを防ぎ、東ではリビア西部まで支配下に加えてムワッヒド朝の最大版図を実現したが、次第に王朝のイデオロギーであったタウヒード主義は形骸化し、宗教的情熱に支えられたベルベル人の軍隊が弱体化に向かっていった。1212年、マンスールの子で第4代君主のムハンマド・ナースィルはコルドバの近郊でアルフォンソ8世らの率いる十字軍に敗れ(ナバス・デ・トロサの戦い)、アンダルスでの支配力を失った。
FXの治世には本拠地のマグリブでもムワッヒド朝に対する反乱が起こった。既に宗教的な結束を失っていた有力者たちの間での内紛が激化して政治が混乱したが、1229年には、君主自らが布告を発し、タウヒード思想を放棄した。この結果、ムワッヒド朝はますます求心力を失い、地方でもハフス朝が独立するなど、版図は急速に縮小して現在のモロッコ周辺を支配するのみとなった。1269年、新興のマリーン朝がマラケシュを征服し、ムワッヒド朝は滅亡した。
モンゴル帝国の拡大とともにユーラシアを横断する使節、商人、旅行者の数も増加し、プラノ・カルピニ、モンテ・コルヴィノ、マルコ・ポーロ、イブン=バットゥータなどの著名な旅行家たちがあらわれる。
モンゴル部族の伝来の宗教は素朴な天に対する信仰を基礎としたシャーマニズムであり、かつ仏教やネストリウス派のキリスト教、イスラム教を信仰する人々とも古くから接してきたため、神を信じる全ての宗教を原則として平等に扱った。このことからモンゴル帝国に服属した宗教教団は保護が与えられて宗教上の自治を享受することとなった(もっとも民衆を扇動してモンゴル帝国への謀反を企てるような新興宗教は格別)。
モンゴルはチンギス・ハーンのジャサク(ヤサ)と呼ばれる遊牧民の慣習法とチンギス・カーンの勅旨・訓言を律法として固く守り、少数支配者であってもモンゴルの社会制度を維持した。14世紀に入ると、モンゴル人たちは次第に東方ではチベット仏教、西方ではイスラム教を受け入れていくが、チンギス・ハーンのジャサクに基づく社会制度は極力維持され、宗教的な寛容は保たれた。
FXの摂取については排他性が薄く、学術や技術の東西交流を促進させた。この時代に西アジアには中国から絵画の技法が伝わって細密画(ミニアチュール)が発達する。中国には西アジアから天文学など世界最先端のイスラム科学が伝えられ、投石機などの優れた軍事技術がもたらされた。逆に中国では、モンゴルのケシク制度に適合しない科挙が廃れるなど、儒教があまり重視されなかったが、儒学の中でも実用性を重んじる朱子学が地位を高め、14世紀に科挙が部分復活したとき正式の解釈として採用されるようになる。
その一方で、実用的ではない自然科学には無関心だったようで、バグダードを征服したときには知恵の館、図書館を徹底的に破壊し、薬学から天文学にまで至る学術書を川に捨てた。これによって、イスラム科学は衰退していった。
フレグは兄のモンゴル帝国第4代大ハーン、モンケによりモンゴル高原の諸部族からなる征西軍を率いて西アジア遠征を命ぜられ、1253年にモンゴルを出発、1256年に中央に送還されたホラーサーン総督に代わってイランの行政権を獲得し、のちのイルハン朝がイラン政権として事実上成立した。フレグは1256年にニザール派(暗殺教団)を降伏させてイランの制圧を完了すると、1258年にイラクに入ってバグダードを攻略、アッバース朝を滅ぼして西アジアの東部にモンゴル政権を確立した。1260年、フレグはシリアに進出、アレッポとダマスカスを支配下に置くが、兄モンケ死去の報を受けて引き返し、さらに東アジアで次兄クビライ(元の世祖)と弟アリクブケによるモンケの後継者争いが始まったことを聞いてイランに留まり、ここに自立王朝としてイルハン朝を開いた。
フレグはシリアから引きかえしたときシリアに軍の一部を残したが、残留モンゴル軍はマムルーク朝のスルタン、クトゥズとマムルーク軍団の長バイバルスが率いるムスリム(イスラム教徒)の軍にアイン・ジャールートの戦いで敗れてシリアを喪失し、以来マムルーク朝とは対立関係にあった。また、なし崩し的に西アジア地域を占拠して自立したため、隣接するジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)とは同じモンゴル帝国内の政権ながらホラズムとアゼルバイジャン、チャガタイ・ウルスとはトランスオクシアナの支配権を巡って対立関係にあり、両ハン国がオゴデイ家のカイドゥを第5代大ハーン、クビライに対抗して大ハーンに推戴したため、かえってクビライの大元ウルスとの深い友好関係を保った。さらにキプチャク・ハン国はマムルーク朝と友好を結んでイルハン朝挟撃の構えを見せ、対抗してイルハン朝はビザンツ帝国と友好を結んでいた。イルハン朝がビザンツと結んだのには、フレグの母ソルカクタニ・ベキや、フレグの子で1265年に第2代ハンとなったアバカがネストリウス派のキリスト教徒で、キリスト教に対して親しみがあったためであるとも言われる。
イルハン朝は、フレグの征西のためにモンゴルの各王家に分与されていた全部族の千人隊から一定割り当てで召集された遊牧民と、モンゴル帝国の従来からのイラン駐屯軍の万人隊全体からなる寄せ集めの軍隊からなっていた。そのためイルハン朝の政権構造はモンゴル帝国全体のミニチュアと言っていい形をとっており、帝国本体全部族の在イラン分家の首領でもある将軍たちの力が入り混じり、さらに農耕地への行政を担う在地のペルシア人官僚の派閥争いもあって、複雑な権力関係にあった。ハンは本来フレグ家の直属部隊とは言えない各部族へと惜しみなく金品を分配し、部族をまとめる力を期待され、また部族にとって都合の良い者がハンの座に望まれたため、1282年のアバカの死後、将軍たちの対立抗争も背景としてたびたび激しい後継者争いが起こった。
その結果、国家財政の破綻、新世代のモンゴル武将たちのモンゴル政権構成員としての意識の喪失といった、ウルスそのものの崩壊の危機に見舞われるに至った。